
「次の一品」で未来は変わる。イオンネクストが実装した"ファン化を科学するAI"の正体──予測と探索、そしてClaudeによるSQLの民主化
2026/4/23
この記事を読むとわかること
・アドテクのスペシャリストが1st Partyデータに見た勝機と、現場の"Excel地獄"を解消した内製基盤「DataLab」の全貌
・「売上」と「ファン化」を両立させる、勾配ブースティング(予測)×Thompson Sampling(探索)のハイブリッドAI戦略
・SQLが書けない現場でも高度な分析が可能に。Claudeをフロントに据えた「SQLの民主化」とガバナンス設計
日本最大級の小売流通網を持つイオングループ。そのネット専用スーパー「Green Beans(グリーンビーンズ)」を展開するイオンネクストには、日々膨大な購買ログが蓄積されている。それは、データサイエンスの視点で見れば間違いなく宝の山といえる。
しかし、そのデータを価値に変えるための回路は、組織のなかで目詰まりを起こしていた。どれほど良質なデータがあっても、それを活かすための基盤と文化が整っていなければ、宝の持ち腐れになってしまう──。
この構造的なボトルネックを解消し、顧客生涯価値(LTV)を最大化する内製AI基盤の構築に挑んでいるのが、大久保 悟だ。大久保が開発を主導するデータ分析基盤「DataLab」は、LLMをフロントに据えてSQLを民主化し、裏側では高度な数理モデルが未来を変える次の一手を見出し始めている。
【目次】
1st Partyデータは嘘をつかない——アドテクエンジニアが小売を選んだ理由
大久保はかつて、BtoB領域にキャリアの主軸を置いていた。スタートアップ企業のデータベースプラットフォームを運営する会社では、当時はまだ一般的ではなかった機械学習を用いて企業を調査・分析するプロジェクトに従事。その成果は、大手テック系メディアにも取り上げられた。
その後、アドテクノロジー企業へ転身。月間数百億規模のトラフィックを捌くネイティブ広告プラットフォームにおいて、配信最適化アルゴリズムの開発を主導した。特許を取得した同技術は、業界内でも確固たる実績として知られている。
アドテク業界のスペシャリストはなぜ、次の舞台としてフィールドの異なる小売を選んだのか。そこには、Web広告業界が直面していた構造的なもどかしさがあった。
1つは、Cookie規制に象徴されるプライバシー保護の強化と、それに伴う3rd Partyデータ活用の限界だ。近年、個人情報保護を重視する潮流が加速するなかで、Web広告が扱えるデータは年々制約を受けつつある。さらに、動画視聴が主流となった現在、Web上の行動ログだけではユーザーの関心や文脈を十分に捉えきれないという課題意識も強まっていた。
もっと生々しく、結果がダイレクトに返ってくるデータに触れたい——。そうした思いを持つようになった大久保が目をつけたのが、ECの世界だった。
ネットスーパーのような業態は、個人が完全に特定された状態で、生活に密着した購買データが蓄積されます。これは紛れもない1st Partyデータであり、嘘をつきません。海の向こうではウォルマートがリテールメディアとして大成功しているように、日本でそのポテンシャルを秘めているのはどこか。そう考えたとき、イオンネクストは『日本版ウォルマート』を実現しうる唯一無二の場所に見えたのです。(大久保)
【入社エントリ】インターネット広告業界からイオンに転職した理由は、広告技術やセールスインテリジェンスのやり方をBtoC領域で試したかったから
宝の山を腐らせていた"Excel地獄"
しかし、イオンネクストへ入社した大久保を待っていたのは、理想と現実のギャップだった。データという宝の山はあるものの、現場は"Excel地獄"のなかにいたのだ。
根本的な問題の1つは、データレイクの分断にあった。本来であれば統合して分析されるべきデータが、複数のBigQueryプロジェクトや異なるデータベース環境に散在していたのだ。これらを横断して分析しようとすれば、「Aというデータベースからデータを抽出し、Bというデータベースのデータと突き合わせる」という複雑な工程が発生する。
事業部のメンバーの多くはSQLを扱えないため、仮説を1つ検証するのにも、まずはエンジニアにデータ抽出を依頼し、数日待たなければならない。ようやくデータが届いても、「この商品群を特定のキャンペーン対象として集計したい」といった定義は、マーケティング担当者の頭の中や個別のExcelファイルにしか存在しない。結局、エンジニアから受け取った膨大なローデータに対し、手元の定義ファイルを手作業で突き合わせ、ピボットテーブルを駆使して力技で結合するしかない。こうしたリードタイムと作業負荷が、現場から思考する時間を奪っていた。
さらに、マーケティング施策の実行フェーズでも大きな壁が立ちはだかっていた。既存のMAツールだけでは、大久保が描くLTVを最大化するレコメンドは実質的に実現不可能だったのだ。たとえば、「過去に商品Aを買った人は除外し、かつ商品Bを買ったことがあり、なおかつAIが予測したロイヤル顧客スコアが高い人」というセグメントを作ろうとする。これを一般的なMAツールのGUI上で設定しようとすれば、無数の条件分岐とフィルターを組み合わせる必要があり、もはや人間の手には負えない"無理ゲー"と化す。
結果として、現場は担当者の経験則に基づいた設定に逃げるしかなかった。これでは、顧客一人ひとりの文脈に合わせた関係構築など望むべくもない。

Claude × MCP。自然言語でDBを叩くアーキテクチャ
この状況を打破するために大久保が構築を主導したのが、「DataLab」である。DataLabは、分断されたデータレイクの中央に立ち、あらゆるデータソースへの接続を一手に引き受ける、いわば統合アクセスポイントとしての基盤だ。散らばったデータベースへの回路をDataLabに集約することで、ユーザーは裏側の複雑な接続経路を意識することなく、必要な情報へワンストップでアクセスできるようになる。

そのうえで、大久保はLLMによるSQLの民主化を実現した。フロントエンドには「Claude」を採用。決め手となったのは、ClaudeがMCPへの対応において先行していた点だ。
外部データソースとセキュアかつ柔軟に接続するうえで、当時はClaudeのMCPサポートが頭ひとつ抜けていました。これをDataLabという統合基盤に組み込むことで、複雑な権限設定を個々のユーザーに行わせることなく、セキュアに社内データへアクセスさせる環境が作れたのです。(大久保)
このアーキテクチャにより、事業部のメンバーが自然言語で問いかけるだけで、AIが裏側で複数のデータを結合するSQLを生成し、Pythonでの集計までを自動化して結果を返す仕組みを構築した。従来はエンジニアが専用のMLパイプラインを組まなければ不可能だった高度なセグメント分析や要因分析も、今やチャット形式で即座に実行可能だ。
なぜAIは、食品ECでペーパータオルを提案したのか? 「予測」でファン化への道筋を描く
DataLabの真骨頂は、こうした業務の非効率を解消するだけでなく、データによって顧客との深い関係性を構築することにある。単に「売れる商品」ではなく、「ファンになってもらえる商品」をどう見つけるかがポイントだ。
ここで採用されたのが、決定木ベースのアンサンブル学習手法「勾配ブースティング(Gradient Boosting:GB)」である。あえてDeep LearningではなくGBを採用したのは、膨大な変数を扱う多変量解析を、現実的な計算コストで効率的に処理できる点にあった。また、構造化データへの適合性が高く、ブラックボックスになりがちなDeep Learningに比べて、人間が結果を解釈しやすいのも特長だ。

大久保が構築したモデルは、単純に「この商品が売れるか」を見るものではない。注目しているのは、ある商品との出会いが、その後の購買行動にどんな“変化”をもたらすかだ。
たとえば、生鮮品を中心に購入している顧客に対して、「この人にとって、買い物の幅が自然に広がる“次の一手”は何か」を、過去の購買ログから機械学習が一人ひとり異なる形で導き出していく。
ここで行われているのは、過去の購買履歴をなぞるだけのレコメンドではない。機械学習は、人間の担当者では発想しづらい組み合わせやタイミングまで含めて「後から振り返ると確かに気が利いている提案」をデータから浮かび上がらせてくる。
このモデルが導き出したある結果に、大久保自身も目を疑ったことがあるという。食品がメインのネットスーパーで、AIが「洗って使えるペーパータオル」を提示してきたのだ。

そのLift値(※下記画像参照)は7.5倍を記録していた。「実は、最初は計算エラーだと思ったんです(笑)。食品ECで、なぜペーパータオルなのかと」と、大久保は当時の心境を明かす。

しかし、データを紐解くと、納得の理由が浮かび上がった。ロイヤル顧客層は、高級スーパーに陳列されているような、良質だったり少し珍しかったりする商品を好む傾向がある。ただ、顧客の多くは「グリーンビーンズ=食品を買う場所」と認識しており、日用品も豊富に取り扱っていることを知らないケースが多い。しかし、キッチンで使う便利なこの商品を提案することは、「ここではこんなものも買えるのか」という良質な気づき=セレンディピティを与えることになった。
つまり、この商品は顧客の認識を変え、購入カテゴリを食品以外にも広げるための戦略的なフックとして機能していたのだ。結果として、バスケット単価とLTVを底上げする特異点となっていた。
AIは時に人間が思いつかない手を打ちます。それはまるで、盤面全体を見渡す将棋の名人が指す定跡外の一手のようです。最初は「なぜ?」と思っても、後から振り返るとそれが勝敗を分ける決定打になっている。DataLabが目指しているのは、まさにそうしたレコメンドなのです。(大久保)
正解だけを出すAIは、ビジネスを先細りさせる——「探索」でフィルターバブルを破る
しかしながら、予測モデルだけでは十分ではない。過去のデータに基づく最適解だけを出し続けると、レコメンドはフィルターバブルに陥り、ビジネスが先細りしてしまうリスクがあるからだ。
そこで、強化学習の一種である「Thompson Sampling」が導入された。
Thompson Samplingはいわゆる「多腕バンディットアルゴリズム」の一種です。売れるとわかっている商品を活用しつつ、一定の割合でデータが少ない未知の商品を探索する。予測モデルが弾き出した正解に対し、バンディットが「いや、たまにはこの新商品を試してみよう」と揺らぎを与えるイメージです。この組み合わせにより、「短期的なパフォーマンスの維持」と「未来のヒット商品を育てる」ことを両立させています。(大久保)

民主化を支える、ガードレールの設計
DataLabのフロントエンドではClaudeが活用され、SQLの民主化が実現されていることは前述のとおりだ。しかし、AIにデータベースを直接触らせることには、ハルシネーションやセキュリティ上のリスクも伴う。
そこで大久保は、AIの精度を高めるための工夫を凝らした。
スキーマなどの情報をMarkdownで詳細に記述してClaudeに読み込ませることで、AIがデータの構造を正しく理解できるようにしています。また、BigQueryに高額なクエリを投げないよう制御するプロンプトも組み込んでいます。(大久保)
さらに、システムとしての安全性を担保するために重要になったのが、インフラを担当する荒井とのタッグだった。大久保が描くロジックを安全に稼働させるため、荒井はインフラエンジニアの視点から強固なガバナンスを設計した。
私はどうしてもロジックや実装に没頭してしまうタイプですが、荒井さんは「その権限設計で大丈夫ですか?」「監査ログはどうしますか?」と、常にインフラ視点でガバナンスを効かせてくれます。万が一の誤動作や情報漏洩を防ぐ権限管理を彼が徹底し、土台となる安全構造を作ってくれたからこそ、私たちはアクセルを踏み込めるのです。(大久保)
イオンネクストには、日本で一番「人間」を知るためのデータがある
現在、DataLabは社内での運用が始まっており、すでに「欲しいデータが数分で手に入る」「レポート作成時間が劇的に減った」といった成果が出ている。だが、大久保の視線はすでにその先にある。
私が次に目指しているのは、アルゴリズムそのものの改良というより、アルゴリズムを評価する環境自体の高度化です。具体的には、現実の顧客行動を限りなく正確に再現した高精度なシミュレータ、いわばデジタルツインを構築することです。いきなり本番でテストするのではなく、まずはこのデジタルツインのなかでPDCAを回し、アルゴリズムを徹底的に育てる。シミュレータの精度が高ければ高いほど、現実世界での失敗リスクを最小化しながら、改善サイクルを劇的に加速させることができるはずです。(大久保)
インタビューの最後、大久保はイオンネクストという環境について、こう締めくくった。
正直、入社前はここまでデータ活用に理解があるとは思っていませんでした。小売の現場の方々は、棚割などを通じて「確率的な事象」を肌感覚で理解している方が多く、データサイエンスとの親和性が非常に高い。そして何より、ここには日本屈指の良質な1st Partyデータがあります。生活者の行動そのものであるデータを使って、アルゴリズムで人の行動変容を起こせる。力のあるデータサイエンティストやエンジニアにとって、これほど刺激的な環境はないと思います。(大久保)
かつて将棋AIが人間には思いつかない一手を指して定跡を変えたように、DataLabは今、小売における顧客との関係づくりの定跡を書き換えようとしている。
※掲載している所属・役職・肩書きおよび各種情報は、記事公開時点のものです。
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